メッセージ要旨:「真実の主のことば」(2025/05/04主日礼拝)
<復活節第3主日 聖書箇所>
旧 約:列王記上17章17〜24節
詩 編:交読116編1~14節
使徒書:コロサイの信徒への手紙3章1~11節
福音書:マタイによる福音書12章38~42節
神の愛を信頼できるなら、すでに遭遇しているしるしに気づけるだろう。
列王記上から:
すでに奇跡は起こっているのに・・・。だって、女主人の家では、食べ物にこと欠くことがなかったから。それなのに、息子の命が救われる出来事がないと「あなたの口にある主の言葉は真実」と言えない女主人。
マタイによる福音書から:
「しるしを見せてください」。パフォーマンスを求めるかのように口にする人々。しるしがないと、信じられないのか?とイエスは問いかける。そして、言葉によって悔い改めるようにと呼びかける。
復活節の今、この箇所が読まれる意味:ヨハネ福音書に記された疑うトマスの物語を私たちに思い起こさせる。「この手を傷跡に入れてみないと信じない」というトマス。彼の元を訪れたイエスは、傷跡に触れさせ「信じるものになりなさい」と招く。そうして信じたトマスにイエスがかける言葉は、「見たから信じたのか。見ないで信じる人は幸いである」(20:29)。
しるしを求め、証拠を求め、事実を求める。そこにあるのは疑いと迷い、不安と警戒。怪しい…。そういったトゲトゲとした感情ではないだろうか。(マタニティマークを取り巻く状況を覚えて)
愛する人の言葉を私たちは最初から疑うだろうか。愛してる、という声に不安になるだろうか。(子どもたちのまなざしから)
相手に対して信頼があるならば、その言葉を警戒しながら受け取ることはしない。言葉のまま、ありのまま、受け止めるのではないだろうか。
「見ないで信じる」。それは、証拠もなく信じる愚かな行為ではない。神からの「あなたを愛している」という言葉に信頼し、「あなたも愛する人になりなさい」という招きを受け入れるということではないだろうか。トゲトゲとした感情で疑うのではなく、神の深く広い愛に私たちはもう包み込まれている、そのことを信頼できるものでありたい。
コロサイの信徒への手紙では:
今日の書簡では、「上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい」と警告する。上とは神のこと。神のところにあるものに心を留める。それは、愛であり、平和であり、希望であり、喜び。どれも形があるものではないけれど、確かにあるもの。一方で、地上のものに心を引かれないようにする/欲望を捨てるとは、自分中心の世界から、他者と共に在る世界への転換点。人との出会い、誰かの言葉、差し伸べる手、包み込むまなざし。そこに、奇跡は、神の愛のしるしは、証されている。
神のものに心を留める。その生き方は、私たちを愛のわざへと招いている。他者中心的な生き方ではない、神の御心を追い求める生き方だ。それは、誰かを愛そうとすることだけではない。誰かからの愛に目を留め、気づき、そこに神の愛のしるしを見出すことではないだろうか。神に信頼して、愛のしるしに気づくものとして歩むことができますように。
賛美歌:讃美歌21 -196「ああ主のひとみ」
4月の聖句:わたしはよみがえりです。いのちです。
やわらかな日差しの中、春の訪れとともに
イースターが近づいてきましたね。
イースターは
イエスさまが死から復活された出来事を
お祝いする特別な日です。
今月の聖句は、
イエスが語られた言葉です。
わたしはよみがえりです。
いのちです。
イエスが復活であること。
イエスがいのちであるということ。
それはどういう意味を持つのでしょうか。
復活って、死んでよみがえること。
でも私たちって、日常でも復活した!とか言いませんか。
もちろんその時は、実際に死んだわけでも、
生き返ったわけでもないけれど。
でも、死んだように心や体が動けなくなってしまって、
(風邪とか、病気とか、疲労とか..)
そこから回復したら「完全復活!」なんて言います。
イエスの復活っていうと、
死からのよみがえりでとっても特別で、
とっても尊くて、とっても偉大なことだけど。
でも、この復活が私に教えてくれるのは、
もっと日常的で、いつもあって欲しいこと。
それは、希望、って名前でも呼ばれるもの。
わたしはよみがえりです。
イエスの姿は、イエスの言葉は、イエスさまは、
わたしにとって希望そのものだと思います。
再び立ち上がる姿を与えてくれる。
打ちひしがれて、死んだようにうずくまるとき、
名前を呼んで、「出てきなさい」っ言ってくれる。
いつもそばにいて、
いつも味方でいてくれて、
いつも見守っていてくれる、
そんな希望のヒーローです。
イエスさまを信じる。
イエスの十字架と復活を信じる。
それは、わたしにとって、
希望は消えることがないと信じること。
この出来事のよろこびが、
一人でも多くの人が、少しでも伝わるといいな…
イースターを喜びのうちに迎えられますように。
わたしはよみがえりです。
いのちです。
今月も、みなさんの毎日が、
たくさんの恵みと愛に出会う日々となりますように。
3月の聖句:「主はわたしの羊飼い。私は乏しいことがありません。」
今月の聖句は、
「主はわたしの羊飼い。私は乏しいことがありません。」
詩編23編1節の言葉です。
乏しいと訳されたヘブライ語の単語ヘクサールは
[欠ける]や[足らない]といった意味を持つ言葉です。
私は足らないことがない、と語るこの詩編に描かれるのは、
圧倒的な神への信頼です。
この有名な詩編と再会する度わたしは問われます。
どれほど主を信頼できているだろうか、と。
自分の力ばかりに頼り、
がむしゃらに走り回っているわたしがいます。
忙しさを理由に主により頼むことを
傍に置いている自分に気づきます。
今すべきことは何か。
どうしたら困難から救われるか。
わたしの羊飼いに問いかける時を大切にしたいと思います。
そして受難節を迎える今、
主イエスがゲツセマネで
父なる神を信頼してささげた祈りを覚えます。
「父よ、できることなら、
この杯をわたしから過ぎ去らせてください。
わたしの願いどおりではなく、御心のままに」(マタイ26:39)
松田宅での家庭集会(2025/2/26)
聖書を味わい、交わりを楽しむ家庭集会
松田さん・荻原さんがご家庭を開いてくださり、家庭礼拝を守りました。5名で賛美と聖書を味わうひととき、たくさんお話しの花も咲き誇る午後となりました。恵みの時を守ってくださった主に感謝します。場所を提供してくださった主の姉妹にも感謝です。
三木教会の聖書と祈りの会がお休みになる2月と8月、家庭礼拝や家庭訪問を行なっています。いつも家庭を開いて迎えてくださる松田さん・荻原さん姉妹のご自宅へ祈り会のメンバー2人と共に伺いました。
鉢植えの花々が咲き誇る温められたお部屋で、讃美歌を歌い、祈りを捧げました。聖書日課から聖書を読んで、味わう時間も過ごしました。そのあとは、お茶会です。松田さんがおすすめのモンブランをご用意してくださいました。三木市の志染駅近くにある「リリハ」という老舗の洋菓子店のものです。ご姉妹の荻原さんのお気に入りのはちみつ紅茶と共にいただきました。今日のお写真は華やかに準備してくださった、お茶とケーキの姿を添えて、感謝と共に報告いたします。
次年度からは、平日に集会を持つことが難しくなるため、家庭集会もなかなか行うことができなくなります。土曜日や日曜日の午後の訪問は可能ですので、希望の方はお声がけくださいね。
教区女性会神戸地区Cブロック集会(2025/2/16)
みよ、兄弟がともに座っている。
なんという恵み、なんという喜び。
2月16日、礼拝後の午後の時間、兵庫教区女性会神戸地区Cブロックの集会がありました。今年度の担当は神戸丸山教会。三木教会からも2名の信徒さんと共に、鈴蘭台教会からの3名も途中でお迎えして、出席することが叶いました!
Cブロックはどこも高齢化...との声を聞きます。それでも、今回の集まりでは30名も集まりました!用意してくださった神戸丸山教会のみなさまに感謝です。「みよ、兄弟がともに座っている」のあの詩編を味わい、それぞれの教会の様子を聞いて、間違え探しを楽しんで、かわいいおやつとみことばのおみやげ...素敵な時でした。神の祝福のうちに集められたこと、感謝いたします。
来年度は三木教会が女性会神戸地区Cブロック担当。三木教会もまた、主によって豊かに用いていただくことが叶いますように。
三木教会も女性会は虹の会と名前を変え、男女の垣根をなくしています。昨今、男女で分けるなんてと思いつつ、先日の婦人教職の会の中で聞いた言葉が胸に残ります。「女性の課題ってまだなくなってないですよね?」女性だからこそ痛かった、苦しかった、女性だからこそ気づけた出来事....それを傍に追いやっていないか?と問われます。
女性会としての集まり・出会い・広がり。女性たちにとって、さらには女性たちをとりまく周りの人々にとって、恵みと勇気に満ちた時となれますように。
どうぞのつくえ、はじめました(2025/2/9)
素敵な食器が並んでいます
どうぞのつくえ、はじめました。
引き取ってくださるお家を探している食器です。どなたでもお持ち帰りください。もちろん、、無料です。キラキラ虹色のティーセットに、レトロなグラス....ほんと素敵な食器なんです...!!!平日も設置しています。教会の開いている日・水・木はさらにたくさんの食器を教会の集会室でご覧いただき、お引き取りもできます。
そんなどうぞの机を設置して、一ヶ月が経とうとしています。多くの食器が貰われていきました。今まで教会の坂を降りたことのない方が、お友だちと誘い合って立ち寄ってくださる日もありました。地域の方々にとって、歩み入りやすい試みだったのだと感じています。
まだまだ食器たちがもらい手を待っています。ぜひ、食器好きな方、三木に来る予定のある方、三木教会へお立ち寄りいただけますと幸いです。素敵な引き取り手と出会うことができますように。
教区礼拝交流 交換講壇(2025/1/19)
教区内の教会との出会いと交わりの日
兵庫教区では、伝道部が主催となって、礼拝交流が行われています。夏頃の案内に申し込み、兵庫県内の同教団の教会/伝道所と組を作ってもらえます。それぞれの置かれた教会とはまた違う地域にある教会の信徒や教師と出会い、交流することができるのです。教区内の教会が、互いに助け合っていること、共に歩んでいることを感じられる尊い機会となるよう祈りつつ、毎年楽しみにしています。
三木教会もこの礼拝交流の機会を感謝し、毎年申し込んで参加してきました。昨年、三木教会は播州地区の姫路教会との交流の機会をいただきました。そして今年は、阪神地区の芦屋三条教会との交流の機会をいただきました。
地域との結びつきを大切にされる芦屋三条教会
三木教会では、浅野直美先生をお迎えして礼拝を守りました。お話の内容や雰囲気が長年経験された方だなと感じたそうです。震災の話も聞かせていただきました。プレハブの時に近所の方から、こんなところに教会があったのですね、とおっしゃる方がいて、それでつながる方も与えられたとお聞きしました。地域との結びつきを大切にされている教会だと感じました。恵み豊かな時間に感謝いたします。
三木教会の小林牧師は、芦屋三条教会での奉仕でした。芦屋三条教会は、芦屋市と神戸市の市境にあります。牧師の3歳の息子も共に受け入れていただき、お騒がせしてしまいました。さらには元同僚の友人たちも礼拝に来てくれました。礼拝後には、美味しいケーキと紅茶をいただき、交わりの時間を過ごしました。アットホームで、すこしこそばくなるくらい居心地の優しい教会でした。
恵みのひとときに感謝いたします。