今月の聖句を、高校生の頃の私は、どうやって受け入れたらいいか悩んでいました。というのも、当時の私は不登校で、こうあるべき姿と、そうあれない自分の間に立っていたからです。要は、私は自分のことが好きじゃなかった、むしろ嫌いまであったからです。この聖句は「自分のように」愛しなさいと言います。自分さえも好きでいられない私は、どうやって隣人を愛せるんだろう。そんな資格ないんじゃないか、そんなことできないんじゃないか、そう思っていました。
でも、この聖句を何度も聞き、またこの聖句が与えられる文脈にある善きサマリア人の譬えを味わう中で、思い至ったことがあります。それは、愛せない私をも愛してくれるイエスがいる、ということ。そして、その愛を他者を用いて私に示し続けてくれている、ということ。私が私を好きでいられなくても、私の家族や友人、先生、多くの人が私を認め、大切に思ってくれていることに気づいたのです。同時に、私にも大切に思う人たちがいることも意識するようになりました。家族や友人、先生…私もまた、皆のことが大切で、愛している。資格とかじゃなく、すでに私は愛が注がれ、愛するものとして生かされていたのです。
隣人を自分のように愛しなさい。自分が愛されていること、また自分もまた愛するものであることを意識した時、この教えを体現するための一歩を歩み始めるのだと思います。
私だけでなく、当然全ての人が神の愛の御手に包まれ、様々な方法で愛を示されていることと私は信じます。その愛を示すために、私自身も用いてもらいたいと願っています。主が愛してくださるように、愛するものとして、共に生きていきましょう。